八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

前回取り上げた「名楽園」(中村遊廓)の他に、名古屋市内には赤線エリアが3か所存在していました。
その一つが「八幡園」、現在の最寄り駅はJR尾頭橋駅ですが、赤線営業当時はまだ開業していませんでした(開業は平成7年)ので、隣の金山駅か名鉄山王駅(当時は「中日球場(ナゴヤ球場)駅」)が最寄り駅だったと思われます。
因みに、ナゴヤ球場の開場が昭和23年でしたから、選手が試合を終えた後に繰り出して夜のバットを......といった塩梅だったんでしょうか。
そんな赤線「八幡園」ですが、起源は花街でした。
名古屋の花街は「五連妓」「十三連妓」「十七連妓」と呼ばれており、中でも「五連妓」と呼ばれる5つの花街が最上級とされていました。
その「五連妓」を含めた13の花街が「十三連妓」で、さらに場末の花街を含めて「十七連妓」と呼ばれていました。
前回取り上げた中村遊廓の中にあった「旭連」は「十三連妓」の一つでした。
さらに言うと、今回の「八幡園」の前身は「八幡連」という花街で、これまた「十三連妓」の一つとされていました。
名古屋の花柳界は、戦前には芸妓置屋約600軒、芸妓2500名、料理店・待合合わせて約1000軒という規模(『全国花街めぐり』の記述より)でしたが、戦後に大変動をきたしてしまいます。
花街「八幡連」は赤線「八幡園」に変貌しますが、実はもともと戦前から「どちらかというと低級」であったとされ、芸妓は「金魚」と呼ばれ、「不見転(ふずてん)」と称して身を売るものも多かったといいます。
木村聡氏の『色街百景』によれば、戦時中に花柳界は衰退し、昭和18年9月ごろから中村、稲永という2つの遊廓から業者が流れてきたそうです。
そんな感じで、戦前から赤線の道をたどる素地はあったということで、『全国女性街ガイド』によれば、

戦前の花柳界八幡連がゴッソリ赤線に転向。四、五年は味があったが当今はだめ。中川区八幡町にあり六十八軒三百二十四名。
という感じでした。



不朽園
不朽園 posted by (C)佐々張ケン太

尾頭橋駅を降り、南に行くと「尾頭橋」交差点に差し掛かるが、その角に「不朽園」という名の和菓子屋さんがある。
如何にも老舗の店構えだが、実は昭和30年築、戦後の建物なのだ。
店自体は昭和2年開業だが空襲で焼失、戦後しばらくバラック建てで営業していたという。


尾頭橋
尾頭橋 posted by (C)佐々張ケン太

「不朽園」の角を曲がって古めかしい「尾頭橋」のゲートをくぐった先に今回の目的地がある。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

本通りから外れた場所に広い公園がある。
これが目印だ。
八幡園はその公園の周囲に広がっている。
向こう側には明らかにカフェー建築と妓楼のようなのが見える。


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地図を見ると、公園を中心とした「田」の字のような区画が見られる。
前回の中村遊廓もそうだが、周囲に浮く感じで人工的な区画の仕方だが、これが「八幡園」だ。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

公園の左手にタバコ屋さんがあるが、店構えは妓楼のそれだ。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

自販機が入っているところがカウンターだったようだ。
周囲の豆タイルが鮮やかだ。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

しかし、2階を見ると菊花の透かし彫りを描いた手摺があるので、元々は別の商売だったのだろうか。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

今回の記事は5年ほど前に訪れたものだが、当時はあまり広くないエリアに遺構が濃密に残っていた。
生憎の雨模様だったが、それを押して訪れてよかったと思う。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

そして、回ってみて気付くのは、妓楼建築というよりは料亭や待合ではと思われる花街によく見るタテモノが多いということだろう。
塀に手摺り、玄関とどこを見ても意匠を凝らしている。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

公園の北側の通り、入口にはカフェー建築と料亭のような建物が向かい合うように並んでいる。
最も遊里っぽい風景ではないか。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

その片割れ、和風の一軒は相当の大店だったんだろう。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

これだけ見ると、戦前の遺構と思われそうだが、実はこの一帯は戦災に見舞われている。
そんなわけで今残っている殆んどは戦後に建て直したものなのだ。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

戦争末期から花街としてではなく赤線として営業をしていたという「八幡園」。
しかし、店構えからは元花街というプライドを表面に出していたんではと思われる。
赤線の道を選んだのは不本意だった、とさえ訴えている風に聞こえる。

八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

規模こそは中村遊廓(名楽園)に劣るが、密度という点でいえばこちらが勝っている、と言っても過言ではない。
訪問時の時点では、住居として大事に使われている様子だった。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

赤線ということで、カフェー建築も所々にみられる。


八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

中でも有名なのはこの一軒だろう。
冒頭写真の「床元」という屋号の店、豆タイル張りに円窓という特徴的な外観だが、現在は取り壊されていて見ることはできない。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太
八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

『色街百景』に登場するアーチ形の通用口を持ったカフェー建築。
背後にはマンションが迫っていて、周辺も開発が進行している様子だった。
もしかすると、今残っている風景も見られなくなるのは遠くないかも。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

「一力」という屋号が見える一軒。
玄関の床もタイル張りなのがわかる。



八幡園
八幡園 posted by (C)佐々張ケン太

その横を新幹線が颯爽と通り過ぎていく。
赤線廃止が昭和33年、新幹線開通はその6年後となる。
その高架を過ぎた先にナゴヤ球場がある。
当時は杉下茂や西沢道夫などが活躍し、昭和29年に日本一になったのだが、そんな選手たちがこの通りを歩いていたんだろうか、と思わず想像してしまう。
因みに、現在は本拠地が別の場所のドームだが、今でも2軍のグラウンドとして使われている。

他にも当時のものと思われる建物が多くあり、紹介しきれないほど多く撮っている。
果たして5年以上たった今、どれだけ残っているんだろうか。

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