【愛知県】犬山市「明治村」
明治村

(愛知県犬山市明治村「四丁目」エリア)

明治村「一丁目」エリアは(その1)(その2)
明治村「二丁目」エリアは(その3)
明治村「三丁目」エリアは(その4)

※ギャプション★印は2016年4月訪問当時のものです


明治村には国内はもとより、海外からの移築建築物も3点ほど展示されている。
いずれも日本とかかわりが大きいものばかりで、それらは「四丁目」エリアで見ることができる。
今回はまず、それらの建物から。



ハワイ移民集会所
ハワイ移民集会所 posted by (C)佐々張ケン太

明治22年ごろに建てられた「ハワイ移民集会所」。
日本とハワイのかかわりは、明治初年から始まっている。
「元年者」と呼ばれる日本人たちが、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事によって移民として送り出されたのが始まりだ。
彼らはそこで砂糖工場の労働者として働いたが、炎天下の長時間労働のため苦労も多かったという。
明治4年の日布修好条約、同14年ハワイ王国カラカウア王の来日などで移民交渉が進められ、同18年からは26回にわたり官民移民が送られた。
この建物は、元々はそうした日本人移民のための教会として建てられたものだ。
未開の地だったこともあって治水も不十分で降水量も多かった地だったため、周辺はぬかるみが多かったという。
建物の前に木造の太鼓橋が置かれたのはそのためで、ぬかるみを歩かずに入れるように配慮されたものだ。




シアトル日系福音教会
シアトル日系福音教会 posted by (C)佐々張ケン太

日本からのアメリカ本土への移民も早くから始まっていた。
明治2年に戊辰戦争で敗れた会津藩士数十名がカリフォルニア州に入植したのが始まりで、その後明治中期からは日米間の労働力の需給関係で移民の数を増やしていった。
明治29年にシアトル航路が開かれると、明治末から大正期にかけてその動きは最盛期を迎える。

この建物、元々は現地民の住宅として建てられたものだったが、昭和5年代に日系移民の所有となったものだ。
渡米後、長い苦難の年月を経て手に入れた一軒家だったわけだが、間もなく第二次大戦を迎えると強制収容で追われることになる。
戦後は日系一世のための福音教会として使われる。



ブラジル移民住宅
ブラジル移民住宅 posted by (C)佐々張ケン太

日本人のアメリカへの移民は、明治41年の日米紳士協約を境に大きな制約を受けるが、それに代わる移住先になったのが南米だった。
781名の日本人が契約労働者としてブラジルへ渡航、コーヒー栽培に従事するようになったのが始まりだ。
その後、ブラジルへの移民は増加し、昭和初年の最盛期には2万数千人に及んだという。
この移民住宅は、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら密林を拓いて造った一軒である。
現地産の堅い木材を使用し、スペイン瓦を用いるなど南米の風土に合わせた建物だが、意外にも入植者の日本人大工の手が入っているという。



六郷川鉄橋
六郷川鉄橋 posted by (C)佐々張ケン太

それら外国からの移築建築の近くにある六郷川鉄橋。
明治5年の新橋~横浜間の鉄道開通時、大小22の橋はすべて木橋だった。
複線化と共に橋の架け替えが進められるが、これは明治10年に日本最初の複線用鉄橋として架けられたものだ。
開通式には当時の工部卿伊藤博文も参列して、盛大だったという。



六郷川鉄橋
六郷川鉄橋 posted by (C)佐々張ケン太

明治8年に英国リバプールのハミルトンズ・ウィンザー・アイアンワークス社で制作し、輸入された錬鉄製トラス桁だ。
後に御殿場線の酒匂川に単線用として移されたが、現役の橋桁として90年に及んだ。



尾西鉄道蒸気機関車1号
尾西鉄道蒸気機関車1号 posted by (C)佐々張ケン太

そんな六郷川鉄橋の前に蒸気機関車が置かれている。
往時はこんな感じで蒸気機関車が橋を渡ったんだろう、そんなイメージだ。
因みに、車両は尾西鉄道(現在の名鉄尾西線)で利用されたものだ。
これは静態展示だが、村内では別に2台の蒸気機関車が実際に運行している。



鉄道寮新橋工場・機械館
鉄道寮新橋工場・機械館 posted by (C)佐々張ケン太

鉄道つながりで「鉄道寮新橋工場」。
明治5年竣工だが、(その2)で取り上げた「一丁目」エリアの「鉄道局新橋工場」の前身にあたる建物だ。



鉄道寮新橋工場・機械館
鉄道寮新橋工場・機械館 posted by (C)佐々張ケン太

こちらは鋳鉄柱はじめ外壁の鉄板やサッシなどすべての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下で建てられた。
その証拠に、鋳鉄柱に刻まれているのは英語だ。
後に鉄道局新橋工場を建てるにあたっては国産の材料を使用することになる。



鉄道寮新橋工場・機械館
鉄道寮新橋工場・機械館 posted by (C)佐々張ケン太

ここの見所は建物よりも、中にある展示物だ。
中に入ると、明治期に活躍した機械類が展示してある。
日本の産業革命を支えた機械の数々だが、そのうち2種の重要文化財も含まれている。



リング精紡機
リング精紡機 posted by (C)佐々張ケン太

三重紡績会社で使用されたリング精紡機。
綿紡績の最終工程で使用され、前工程の練紡機で供給された粗糸を引き伸ばして所要の太さにし、撚りをかけて糸にし、自動的に巻き取る機械だ。
イギリスのプラット社の製造で、当時は世界中の紡績機械でも最も優秀とされたものだという。




菊花御紋章付平削盤
菊花御紋章付平削盤 posted by (C)佐々張ケン太

もう一つは「菊花御紋章付平削盤」、文字通り菊の紋章が入っているのが分かる。
岩手県の船舶修理工場向けに製造され、後に盛岡工業高校の実習用工作機械として引き継がれたものだ。



菊花御紋章付平削盤
菊花御紋章付平削盤 posted by (C)佐々張ケン太

機械には「明治十二年 工部省工作分局 東京赤羽」と銘が打たれている。
政府直轄の工場で造られたということで菊の紋が入っていたのだろう。

さて、「四丁目」エリアで最大の目玉といっていいタテモノが「宇治山田郵便局舎」。
国重文指定を受けている建物で、郵便業務も実際に行われているというわけだが......



宇治山田郵便局舎
宇治山田郵便局舎 posted by (C)佐々張ケン太

何と工事中Σ(´д`;)




宇治山田郵便局舎
宇治山田郵便局舎 posted by (C)佐々張ケン太 ★

仕方ないので、前回訪問時の写真を。
明治42年竣工、木造平屋建て銅板葺きで、中央に円錐ドームの屋根を頂き、両翼屋に寄棟の屋根を伏せ、正面左右に小さいドームが載る角塔を立てている。
トルコにあるモスクのような建物が、伊勢神宮の下宮前にあったのだ。



宇治山田郵便局舎
宇治山田郵便局舎 posted by (C)佐々張ケン太 ★

中に入ると円形の「公衆溜」と呼ばれるホールがあり、その周囲にカウンターが廻らされている。
ホールの天井は営業室よりも高くなっていて、高い窓から光を入れている。



宇治山田郵便局舎
宇治山田郵便局舎 posted by (C)佐々張ケン太 ★

カウンターの廻りには郵便ポストがずらりと並んでいる。



宇治山田郵便局舎
宇治山田郵便局舎 posted by (C)佐々張ケン太 ★

郵便制度が始まったのが明治3年、その当時からポストは存在していて、「書状集箱」と呼ばれていた。
形としては江戸時代の目安箱みたいな感じ。
その後、郵便の歴史と共にポストの形状も変遷をたどる。
因みに、古い町によく見かけるレトロで人気な赤い丸型ポストは「1号丸型ポスト」と呼ばれ、昭和24年に初めて登場した。


ここまで来るといよいよ大詰め、「四丁目」エリアもう一つの重文建築に続いて、いよいよ「五丁目」エリアへ入ります。