【東京都】王子十条
(東京都北区王子)
久々に北区へ遠征してみたくなって、王子~十条へやってきた。
何気に自宅からは遠く、電車を乗り継がなければたどり着けない場所なのだ。
王子へは一度訪れたことがあって、消えゆく運命になりつつあるさくら新道や飛鳥山公園にある渋沢栄一の邸宅「晩香蘆」も訪れている。
それについては改めて書くとして、今回は王子から十条と歩いてみた。
王子駅北口 posted by (C)佐々張ケン太
王子駅にはJR京浜東北線の他に東京メトロ南北線、都電荒川線が乗り入れて、何気に交通の要所でもある。
王子は明治に入って、日本で最初の洋紙工場(その名も「王子製紙」)が建てられた地としても有名で、それに関わったのがあの渋沢栄一だった。
渋沢は晩年に近くの飛鳥山に邸宅「晩香蘆」を建て、今も「青渕文庫」と共に飛鳥山公園内に残っている。
王子 音無川 posted by (C)佐々張ケン太
JR王子駅北口を出てすぐ目の前に川が流れている。
これが「音無川」で、広くは「石神井川」という名前で知られている。
一方で石神井川は「滝野川」という別名もあるが、これは台地上から滝のように平地に流れ落ちていたことから付けられたものだ。
その川の急変した浸食力によって流域は渓谷のような形となり、南側の台地は特に「飛鳥山」という名で知られている。
江戸時代より王子はこの音無渓谷と飛鳥山を抱えた景勝地で、かの徳川吉宗が飛鳥山に桜を植えさせたことで、江戸市民にとって花見スポットとしてちょっとした行楽地となった。
王子 音無川親水公園 posted by (C)佐々張ケン太
現在も親水公園という形で整備され、都会の喧騒を忘れさせる風景を見せてくれる。
王子 音無橋 posted by (C)佐々張ケン太
親水公園を進んでいくと、お茶の水の「聖橋」を思い起こしそうなアール・ヌーヴォ調のアーチ橋に出くわす。
昭和5年に架けられた「音無橋」で、橋の上下でかなりの高低差がある。
聖橋にそっくりだが、アーチ部分はあちら以上に複雑なデザインになっている。
音無橋 posted by (C)佐々張ケン太
この音無橋の開通には、あの渋沢栄一が絡んでいたとされる。
当時、音無川を挟む形で王子村と滝野川村に分かれていたが、両者を行き来するには遠回りせねばならなかったうえに飛鳥山を上り下りする必要があった。
飛鳥山に邸宅を構えていた渋沢は、両村を結ぶための架橋に経済的な支援を注いだと言われている。
旧国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
音無川はまた近代化の原動力にもなった。
前述の王子製紙も然りで、明治16年に王子駅が開業すると周辺には工場が多く集まり、そこで働く通勤客を運ぶ路面電車(王子電気軌道、のちの都電荒川線)も通るようになる。
親水公園近くの赤レンガ建築は国立醸造試験所一工場、明治36年に妻木頼黄の設計で造られた。
妻木はJ.コンドルの教え子で、辰野金吾とは同門にあたる。
旧国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所は日本酒の醸造にかかわる研究のために政府の手で設立された。
赤煉瓦建築になったのは、ドイツのビール工場を手本にしたからだという。
何しろ醸造は外気の環境の影響を強く受けるため、赤煉瓦にすることでそれを軽減させるのが狙いだ。
国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
ドイツの建築を参考にしているので、外壁の煉瓦もドイツ積みで、小口だけが見えるように積まれている。
煉瓦造りは天井や窓がアーチでないと荷重を支えられなくなるため、円窓やアーチ窓にしている。
特に力が架かる箇所には石を使い、結果としてデザインとして見せてくれる。
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所第一工場を出て、十条へ向かう途中にある北区公園。
その向こうに白亜の建物が見える。
北区中央公園文化センター posted by (C)佐々張ケン太
アールデコ調の眩しいほどの白さ、現在は文化センターとして利用されているが、実は陸軍第一造兵廠の本部だった建物。
そう、この公園一帯は陸軍用地だったのだ。
明治44年に小石川後楽園近くにあった東京砲兵工廠をここに移す形で設立、ここでは小銃や弾薬、火砲といった兵器製造が行われてきた。
しかし、昭和20年に米軍による空襲で焼失、辛うじて残ったのがこの建物だった。
竣工は昭和5年。
北区中央公園文化センター posted by (C)佐々張ケン太
戦後はGHQが接収、昭和46年まで米軍専用の野戦病院だった。
戦前から戦後にかけては軍の施設といういかめつさ、そして現在は白い平和な建物が建つ公園で広く解放されている。
何とも変遷が激しい場所だ。
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
その建物の横には造兵廠の遺構が残っていた。
芝浦製作所(現在の東芝)製造のボイラーで、この兵器廠で使われていたものだ。
「明治三十八年九月」とある。
陸上自衛隊十条駐屯地 posted by (C)佐々張ケン太
かつての陸軍用地は公園だけでなく、陸上自衛隊十条駐屯地の用地としても使われている。
やはり、戦前も戦後も軍とは切っても切れない縁なのだろう。
この十条から赤羽、板橋にかけてが城北きっての軍都となしていた。
北区中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
自衛隊に並びに、またしても赤煉瓦建築が登場だ。
現在は北区中央図書館として使われているが、こちらも東京第一陸軍造兵廠の施設で、終戦まで弾丸工場だったという。
北区立中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
竣工は大正8年だが、先程の醸造試験所とは対照的に主構造は鉄骨造りで、煉瓦はその外壁として皮膚のように覆ったものである。
男性的で力強い感じのする前者に対し、女性的で繊細な感じだ。
北区中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
中にも赤煉瓦が有効に使われている。
それにしても、見た感じでは軍事施設だったと思えない。
そんな軍都の名残りが見られる十条界隈、不思議なことに戦災の被害が少なかったようだ。
敵軍からすれば恰好の標的なのだが、恐らくは後々に利用できそうだとわざと残した感じか。
実際に終戦後は占領軍の施設に使われたのだから。
そして、十条駅付近もまた戦前を残す町並みが見られるのだが、それについては次回に譲る。
(東京都北区王子)
久々に北区へ遠征してみたくなって、王子~十条へやってきた。
何気に自宅からは遠く、電車を乗り継がなければたどり着けない場所なのだ。
王子へは一度訪れたことがあって、消えゆく運命になりつつあるさくら新道や飛鳥山公園にある渋沢栄一の邸宅「晩香蘆」も訪れている。
それについては改めて書くとして、今回は王子から十条と歩いてみた。
王子駅北口 posted by (C)佐々張ケン太
王子駅にはJR京浜東北線の他に東京メトロ南北線、都電荒川線が乗り入れて、何気に交通の要所でもある。
王子は明治に入って、日本で最初の洋紙工場(その名も「王子製紙」)が建てられた地としても有名で、それに関わったのがあの渋沢栄一だった。
渋沢は晩年に近くの飛鳥山に邸宅「晩香蘆」を建て、今も「青渕文庫」と共に飛鳥山公園内に残っている。
王子 音無川 posted by (C)佐々張ケン太
JR王子駅北口を出てすぐ目の前に川が流れている。
これが「音無川」で、広くは「石神井川」という名前で知られている。
一方で石神井川は「滝野川」という別名もあるが、これは台地上から滝のように平地に流れ落ちていたことから付けられたものだ。
その川の急変した浸食力によって流域は渓谷のような形となり、南側の台地は特に「飛鳥山」という名で知られている。
江戸時代より王子はこの音無渓谷と飛鳥山を抱えた景勝地で、かの徳川吉宗が飛鳥山に桜を植えさせたことで、江戸市民にとって花見スポットとしてちょっとした行楽地となった。
王子 音無川親水公園 posted by (C)佐々張ケン太
現在も親水公園という形で整備され、都会の喧騒を忘れさせる風景を見せてくれる。
王子 音無橋 posted by (C)佐々張ケン太
親水公園を進んでいくと、お茶の水の「聖橋」を思い起こしそうなアール・ヌーヴォ調のアーチ橋に出くわす。
昭和5年に架けられた「音無橋」で、橋の上下でかなりの高低差がある。
聖橋にそっくりだが、アーチ部分はあちら以上に複雑なデザインになっている。
音無橋 posted by (C)佐々張ケン太
この音無橋の開通には、あの渋沢栄一が絡んでいたとされる。
当時、音無川を挟む形で王子村と滝野川村に分かれていたが、両者を行き来するには遠回りせねばならなかったうえに飛鳥山を上り下りする必要があった。
飛鳥山に邸宅を構えていた渋沢は、両村を結ぶための架橋に経済的な支援を注いだと言われている。
旧国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
音無川はまた近代化の原動力にもなった。
前述の王子製紙も然りで、明治16年に王子駅が開業すると周辺には工場が多く集まり、そこで働く通勤客を運ぶ路面電車(王子電気軌道、のちの都電荒川線)も通るようになる。
親水公園近くの赤レンガ建築は国立醸造試験所一工場、明治36年に妻木頼黄の設計で造られた。
妻木はJ.コンドルの教え子で、辰野金吾とは同門にあたる。
旧国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所は日本酒の醸造にかかわる研究のために政府の手で設立された。
赤煉瓦建築になったのは、ドイツのビール工場を手本にしたからだという。
何しろ醸造は外気の環境の影響を強く受けるため、赤煉瓦にすることでそれを軽減させるのが狙いだ。
国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所第一工場 posted by (C)佐々張ケン太
ドイツの建築を参考にしているので、外壁の煉瓦もドイツ積みで、小口だけが見えるように積まれている。
煉瓦造りは天井や窓がアーチでないと荷重を支えられなくなるため、円窓やアーチ窓にしている。
特に力が架かる箇所には石を使い、結果としてデザインとして見せてくれる。
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
国立醸造試験所第一工場を出て、十条へ向かう途中にある北区公園。
その向こうに白亜の建物が見える。
北区中央公園文化センター posted by (C)佐々張ケン太
アールデコ調の眩しいほどの白さ、現在は文化センターとして利用されているが、実は陸軍第一造兵廠の本部だった建物。
そう、この公園一帯は陸軍用地だったのだ。
明治44年に小石川後楽園近くにあった東京砲兵工廠をここに移す形で設立、ここでは小銃や弾薬、火砲といった兵器製造が行われてきた。
しかし、昭和20年に米軍による空襲で焼失、辛うじて残ったのがこの建物だった。
竣工は昭和5年。
北区中央公園文化センター posted by (C)佐々張ケン太
戦後はGHQが接収、昭和46年まで米軍専用の野戦病院だった。
戦前から戦後にかけては軍の施設といういかめつさ、そして現在は白い平和な建物が建つ公園で広く解放されている。
何とも変遷が激しい場所だ。
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
北区中央公園 posted by (C)佐々張ケン太
その建物の横には造兵廠の遺構が残っていた。
芝浦製作所(現在の東芝)製造のボイラーで、この兵器廠で使われていたものだ。
「明治三十八年九月」とある。
陸上自衛隊十条駐屯地 posted by (C)佐々張ケン太
かつての陸軍用地は公園だけでなく、陸上自衛隊十条駐屯地の用地としても使われている。
やはり、戦前も戦後も軍とは切っても切れない縁なのだろう。
この十条から赤羽、板橋にかけてが城北きっての軍都となしていた。
北区中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
自衛隊に並びに、またしても赤煉瓦建築が登場だ。
現在は北区中央図書館として使われているが、こちらも東京第一陸軍造兵廠の施設で、終戦まで弾丸工場だったという。
北区立中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
竣工は大正8年だが、先程の醸造試験所とは対照的に主構造は鉄骨造りで、煉瓦はその外壁として皮膚のように覆ったものである。
男性的で力強い感じのする前者に対し、女性的で繊細な感じだ。
北区中央図書館 posted by (C)佐々張ケン太
中にも赤煉瓦が有効に使われている。
それにしても、見た感じでは軍事施設だったと思えない。
そんな軍都の名残りが見られる十条界隈、不思議なことに戦災の被害が少なかったようだ。
敵軍からすれば恰好の標的なのだが、恐らくは後々に利用できそうだとわざと残した感じか。
実際に終戦後は占領軍の施設に使われたのだから。
そして、十条駅付近もまた戦前を残す町並みが見られるのだが、それについては次回に譲る。
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