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(渋谷区道玄坂「道玄坂小路」)

新宿、池袋と並び「副都心」と称される「渋谷」。
江戸時代までは大山街道沿いののどかな集落という感じだったが、明治時代に入ると「弘法湯」と呼ばれた鉱泉が湧き出たことで附近の円山町に三業地ができ、それに隣接して「百軒店」と呼ばれる繁華街が開発される。
円山町の花街は大正2年に成立、百軒店は関東大震災の復興事業の一環として西武鉄道によって開発された。
一方、明治18年に日本鉄道の赤羽~品川間の開通と同時に渋谷駅が開業、その後は玉川電気鉄道(のちの東急田園都市線)、東横電鉄(同東急東横線)、東京市電、東京高速鉄道(同東京メトロ銀座線)と続々鉄道が乗り入れられ、渋谷はターミナルの街として発展する。
※東京市電(都電)は昭和46年に廃止され、その路線が都営バスに引き継がれる。


スクリーンショット (68)


”谷”という字が入っているように、渋谷は”谷”の町である。
渋谷駅周辺が所謂谷底で、複数路線が乗り入れる一大ターミナルなのだが、一方で渋谷川や宇田川といった河川も集まる「川のターミナル」でもある。
そもそも、渋谷という地名の由来が様々ある中で、「この地を流れる川が、鉄分を多く含み、赤さび色の”シブ色”だったため“シブヤ川“と呼ばれていたとする説」があるぐらい、渋谷と川は大いに関係している。
もっとも、現在は渋谷川も宇田川も暗渠化しているが、その名残は後に登場する。
町全体を見ると、宮益坂と道玄坂が駅を挟んで対面しており、周囲には「円山」「神山」「代官山」「南平台」など”山”とか”台”が入った町が残っているように台地に囲まれている形で、大きな谷地を形成している。



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109前スクランブル交差点 左側に道玄坂、右側へは東急本店へ続く緩やかな坂になっている

前回の渋谷駅周辺からの続き、再び西口側に戻って道玄坂方面に向かう。
109前のスクランブル交差点からは道玄坂、もう一方は東急本店を経て松濤・神山町の高級住宅街へ向かう通りに分れている。
両方も微かに上り坂になっているのが分かる。


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道玄坂

道玄坂は谷底の渋谷駅前で東側の宮益坂と対面し、そこから西に上りながら延びる。
その名前は、和田義盛(又は高座渋谷家との説も)の一族だった大和田道玄という名前に由来しているとされている。
和田義盛が北条氏に滅ぼされると、残党となった道玄がこの坂で山賊となって旅人から金品を強奪しながら過ごしたという説だ。
現在はこの坂を中心に「道玄坂」という町名になっているが、昭和46年の住居表示迄は名字の"大和田"がこの辺りの町名として残っていた。


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道玄坂沿いの風景 下:2012年 上:現在

道玄坂沿いにはモダンなファサードの看板建築が残っていたが、それらも取り壊されてしまい、駐車場と化している。
戦前から戦後にかけて、こうした建物が建ち並んでいたのだろう。


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道玄坂

道玄坂上からマークシティへ伸びる通路は、かつての玉電の専用軌道跡である。
玉電はここから路面を出て、二子玉川まで延びていたが、昭和44年に廃止され、ルートは地下化される形で現在の東急田園都市線に引き継がれる。
前回でも書いたが、銀座線の前身「東京高速鉄道」が渋谷~新橋間を開通させた時点で、玉電に乗り入れる計画も存在していた。
この専用軌道跡もさらに延ばせば銀座線のホームにつながるわけだが、前述のようにこの計画は立ち消えになり、替わって半蔵門線がかつての玉電のルートを乗り入れる形で続いている。


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滝坂道 かつての三業通り

道玄坂上から交番脇への通りに入る。
道標には「滝坂道」とあるが、その案内文でこう書かれている。

滝坂道は(甲州街道進出道)は、かつての大山道が道玄坂から分岐をし、武蔵国府に向かっていた古道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられています。
滝坂道は、目黒区の北部を通り、世田谷区を横断して、調布市で甲州街道に合流します。名称の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれたようです。




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滝坂道 一度上り坂になって、その後は神泉谷に向かって下り坂になる

現在は「裏渋谷」と呼ばれている通りだが、かつては「三業通り」という呼び名だった。
その名の通り、かつて三業地が存在し、写真のマンションが建っている辺りに見番があった。
三業通りは一度上り坂になり、見番があった辺りから次第に下り坂になる。


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神泉谷 地下から京王井の頭線電車が地上に出て、踏切を経て再び地下へ

滝坂道を下った先が京王井の頭線の神泉駅で、ちょうど谷間になっている。
井の頭線は渋谷駅を出るとすぐにトンネルに入り、道玄坂と円山町の地下を通って、トンネルを出る。
踏切を過ぎてすぐに駅のトンネルに入り、地下を通る形だ。
銀座線の渋谷駅と並んで、高低差を感じさせる鉄道風景が近くで見られる。

ところで「神泉」という名前だが、"泉"という字があるようにかつて鉱泉が湧き出たのが由来。
この鉱泉を利用した共同浴場「弘法湯」が開業すると、利用客で人が集まるようになった。


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神泉谷 トンネルの脇に円山町花街への石段が残る

神泉谷から高台に上った先には弘法湯を訪れた客相手の料亭ができ、さらに芸妓置屋もでき、円山町一帯が三業地に指定される。
井の頭線は昭和8年に開通されるが、神泉駅は「弘法湯」、さらに花街の利用客のために開業された駅だ。


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神泉谷 う回路の案内板は高台の円山町へ向かうのが容易でないことを示している

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神泉谷 円山町へ向かう新旧の階段が揃っている

しかし、谷間の神泉駅からわざわざ迂回して石段を登り、円山町の花街へ向かう必要ってあるのだろうか。
当時の渋谷はターミナル駅の街といっても、この辺りにはまだ田畑や林が残っていて、都心から見れば田舎であり郊外であった。
都心には新橋やら柳橋などいくらでも遊べる場所があり、それに比べれば円山町花街は云わば"場末"の花街だった。


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円山町 花街の名残りがいまだ残る

因みに、昭和2年刊行の『全国花街めぐり』によれば、円山町花街の規模は

芸妓屋 百三十軒。芸妓 四百乃至四百十名。料理屋 約二十軒。待合 百八九十軒。

と思いのほか大きいのが分かる。
この花街が繁昌した最大の理由は、近くて都合がいいという客の存在が大勢いたということに他ならない。


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円山町 花街の雰囲気を残す通り

そのお得意さんとはズバリ軍人。
戦前の渋谷は軍都という顔も持っていて、現在の代々木公園は陸軍の代々木練兵場、NHKがある場所は2・26事件の青年将校が処刑されたことでも有名な陸軍衛戍監獄だった(近くにはその青年将校の慰霊碑が建っている)
さらに道玄坂を越えて西に行けば、池尻の駒場練兵場や陸軍獣医学校をはじめ多くの陸軍関連施設があり、それらに勤める軍属の邸宅も多かった。


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円山町 おでん割烹「ひで」も芸妓を呼べる店(旧料亭「斗美田」)

もっとも、羽振りがよかったのは戦前までで、渋谷は山の手空襲で被災し、円山町花街も衰退を辿る。
昭和30年の『全国女性街ガイド』によれば、

神楽坂から一段落ちるのが「渋谷円山町」。ここは芸妓百七十名に置屋八十軒。花代三百円で泊り三千円。とそろそろ転び女が目立ってくる。

という感じだった。
転び女とは、客とすぐ寝る妓のことだ。


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円山町 現役料亭が向き合う通り 奥にはラブホテルも見える

戦後の円山町は、稼げなくなった多くの料亭や待合などが旅館に転業......と書けばあとは察しが付くだろうか。
その旅館というのは連れ込み旅館、通称「逆さクラゲ」(温泉マーク♨を逆さにするとクラゲになるから)と呼ばれていたが、「弘法湯」から発展してきた街の性格からすればあながち間違いではなかった。
やがて、連れ込み旅館は次第に洋風のラブホテルにとって替わり、”円山町=ラブホテル街”はこうしてできた。


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円山町 連れ込み旅館の名残りが近年まであった 左2012年 右2020年

最近まで和風の塀に囲まれた連れ込み旅館風のホテルもあったが、今回通りかかっていたら工事の手が入っていた。
跡には何が建つんだろうか。



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渋谷百軒店 道玄坂沿いのゲート 

円山町花街に隣接する形でできたのが「渋谷百軒店」と呼ばれる繁華街だ。
当然、花街とも密接につながっている。


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渋谷百軒店 道頓堀劇場など猥雑なイメージが強いが......

今でこそ、けばけばしい巨大ネオンで目立つ「道頓堀劇場」やら18禁マークがやたら多い猥雑な街に成り下がっているが、開発当初はそこまで下等ではなく、寧ろ格式高い繁華街を目指していた。



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渋谷百軒店 昭和26年創業のムルギー 池波正太郎も出入りていた。

百軒店は関東大震災後に、西武電鉄系の国土開発社長、堤康二郎がこの地を買収し、浅草や銀座に負けない繁華街を渋谷に作ろうという構想を立ち上げたことから始まった。
震災で被害を受けていた下町の老舗や名店を渋谷に呼び集めて、一大百貨店のような街を目指していたことから「百軒店」という名が付き、資生堂や山野楽器など老舗をはじめ、映画館やカフェーなどが集まる。
円山町花街と隣り合わせだったこともあって、大いににぎわいを見せるようになった。



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渋谷百軒店 大正15年創業のライオン 建物は戦後間もなく往時の姿に復元したもの

百軒店は空襲で全焼するが、戦後には喫茶ライオンやムルギーなど喫茶店や洋食店などが建ち並び、昭和40年代までは至って健全な街だった。
しかし、同50年代に入ると東急本店や文化村、西武やパルコができたことで人の流れが変わっていくと同時に、百軒店も衰退を見せる。


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渋谷百軒店 アールを持つモダン建築

現在の百軒店のように如何わしい店が多くなり始めたのはその同50年代から。
折しも円山町花街が衰退し、ラブホテル街に変貌した時期と重なる。
そんな猥雑な町にあって、往時の名残りをとどめている箇所が所々に見られるのは救いか。


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渋谷百軒店 往時の名残りの一つ「千代田稲荷」が佇む

百軒店の奥まった場所にひっそり佇む千代田稲荷神社が見える。
百軒店に集まった店から信仰を受けてきた商売の神様だ。
戦国時代に太田道灌が江戸築城の際に伏見稲荷を勧請したことから始まる由緒ある神社で、「千代田」の名前があるのはそのためだ。
徳川家康によって渋谷の地に遷座し、百軒店の開発とともにこの地に移してきた。


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渋谷百軒店 道玄坂小路へ続く緩やかな階段

百軒店から緩やかな段差を下ってゆく。
和服の芸妓さんが歩きやすいように緩やかな段差にしたと言われている。



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道玄坂小路 丘の裾を辿るように伸びる

階段を下った先、喧騒の道玄坂小路に降り立つ。
丘の裾を通る小さい道だが、人の数が多い。



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花階段 百軒店や花街へ通じる段差

今来た道を振り返ってみる。
歩く人も街並みも混み混みしているのが改めて分かる。
恐らくは起伏のある土地によるところも大きいのかも知れない。


(訪問202003)