浅草吉原202003(0)
(東京都台東区日本堤)

コロナ禍のせいで外出自粛要請が出たことで、それまで外国人ばかりでゴミゴミしていた浅草が一転して人通りが少なくなった。
しかし、かつてはこれが普通だった記憶があり、改めてインバウンドの力の恐ろしさを知る。
そんな浅草を歩き、更にかつての遊廓「吉原」へ向かうことにした。



スクリーンショット (79)

浅草って平坦だなと思っていたが、実は意外にも高低差がある場所も見られる。
上の地図は国土地理院の地図閲覧サービスから浅草界隈の地図を取り出し、標準地図に陰影起伏、アナグリフ、識別標高を重ね合わせたものである。
アナグリフとは、3D眼鏡を通すと立体的に見える地図の事だが、更に高低差をはっきり示すために陰影起伏図と識別標高図を重ね合わせてみたのである。

上の地図を見ると、これから向かう吉原は平方状にくっきりと高く浮かび上がっているのが分かる。
江戸時代は田んぼばかりで湿地帯だったのが、明暦大火で人形町にあった吉原遊廓の移転先として人工的に埋め立てて造営させたのが新吉原遊廓、現在の「吉原」はそこを指している。
その造営の跡が高低差として表れているのだ。
更に、隅田川から暗渠の跡も見られる。
今回はその跡を辿りつつ、浅草から吉原に向かうことにする。


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花川戸公園 姥ヶ池之旧跡

浅草寺を出て、隅田川の方向に向かう途中にある花川戸公園に、「姥ヶ池之旧跡」というのがある。
浅草が湿地帯だったことは前述したが、この辺りは湿地帯の中に広がる池だったようだ。


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花川戸公園 姥ヶ池旧跡

浅草寺の西隣にある伝法院にも心字池があるように、境内には大小の池が複数存在していたようだ。
この姥が池もその一つで、かつては隅田川につながっていたほどの大池だったという。
明治21年に池は埋め立てられるが、その存在を示す碑や人工的に造営された小さい池が存在を示してくれている。
(この「姥が池」という名の由来はこちらを参照していただきたい)


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待乳山聖天 平坦な浅草に突如現れる高低差

浅草の湿地帯は別名「浅茅ヶ原」と呼ばれ、その中に自然堤防ができて高低差がが生まれたといわれている。
その高低差の一つが待乳山だろう。
名前に"山”とあるように、ここだけ小高い丘になっている。
その頂上に待乳山聖天(本龍院)がある。


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待乳山聖天 石段の手摺には大根と巾着の浮き彫り

待乳山聖天は浅草寺の子院の一つで、創建はその浅草寺と同じ推古天皇の頃といわれている。
”待乳”という名前は元々"真土"と書かれ、太古の時代に周囲が泥海だったのに対しここだけ真の土だったという説がある。
泥海の中に浮かぶ島というイメージだが、やがて泥海は湿地帯となり、島が山として残ったという塩梅なのだろう。



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待乳山聖天 境内から浅草の街を望む

かつてはここから浅草の街を広く眺望できる場所だったようだ。
今ではビルが多くなっているが、確かに眺めが抜群だったのだろうというのは分かる。
こうしてみると、想像以上の高低差だとわかる。


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待乳山聖天 江戸時代から残る築地塀

江戸時代から残るといわれている築地塀からはスカイツリーが顔を覗かせている。


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待乳山聖天 所々に見られる大根と巾着

ところで、境内には大根と巾着が所々で見られるが、大根は身体を丈夫にし良縁を成就させるということから「夫婦和合」の御利益があるとされる。
一方の巾着はその名の通り「商売繁盛」。
附近に吉原遊廓があることで、その関係者の信仰も深かったのではと想像できる。


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今戸橋親柱 

待乳山聖天すぐ近くに今戸橋の親柱が残っている。


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今戸橋跡 埋め立てられているが、ここはかつて河川だった

現在は公園となっているが、河川が流れていたことが分かる。
そして、向こうに止水堰の様なのが見える。


スクリーンショット (79) - コピー

冒頭の地図をもう一度切り取ってみると、今戸橋付近の隅田川に窪んだようなのが見える。
かつての河川の河口だったのではと思われる。


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実際に隅田川へ行ってみると、確かに窪んだ箇所が見える。
そして、その窪みに水路のトンネルがある。
どうやら今でも地下に水路があるというわけだ。


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山谷堀 公園や遊歩道になっている

その流れを追うと、公園や遊歩道が続いている。
かつて山谷堀と呼ばれていた水路の跡で、暗渠化されているのだ。


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山谷堀

江戸時代に入るとこの山谷堀に沿って堤防が築かれるようになる。
これが現在地名と成っている「日本堤」である。
土手道は浅草と吉原遊廓を行き交う遊客が往来し、その一方でこの山谷堀も同様の水運に利用され、沿道は賑わいを見せたという。
堀に沿って料理屋や茶屋、船宿が並んでいたといわれる。


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山谷堀 紙洗橋

山谷堀は音無川と呼ばれた石神井川が水源で、隅田川に流れるが、その間に9か所の橋が存在していた。
その一つが紙洗橋だ。


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山谷堀 紙洗橋

この近くには浅草紙と呼ばれる塵紙がつくられていて、紙漉きのためにこの山谷堀の水流が利用された。
その間の暇を持て余していた紙職人が遊廓へ様子見に行って、遊ばずに戻ることから「冷やかし」という言葉が生まれたという。
紙を水にさらして冷やす作業を「冷やかす」と呼ばれていたことから転じたものだ。


浅草吉原201510 (1)
山谷堀 紙洗橋(201510)

因みに、5年前に訪れて撮った時の紙洗橋がこちらだ。
昭和4年に竣工された当時の欄干がそのまま残っていた。
ところが、今回訪れると真新しいものに変わっている。
往時の記憶をとどめるために残しておくべきだったのではないか、と思うんだが。


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山谷堀 すぐ突き当りに山谷のいろは通り商店街が見える

山谷堀跡を辿て行くと地番が日本堤のエリアに入る。
吉原や山谷は目と鼻の先である。


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山谷堀 戦前の町家が奇跡的にが残る

吉原は戦災で壊滅的被害を受けているが、日本堤に関しては戦前の木造家屋が残っていて、奇跡としか言いようがない。


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土手通り 代表的な木造が続く

山谷堀は戦後になって暗渠化され、土手も関東大震災前後に切り崩され、土手通りう名前の道路になる。
通り沿いには2軒の代表的な木造店舗が並ぶ。


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土手通り 中江と伊勢屋

馬肉の「中江」と天麩羅の「伊勢屋」、いずれも関東大震災後に建て替えたもので、東京大空襲で焼けずに残り、現在も現役の店舗として健在である。
そして、ともに国登録有形文化財の指定を受けている。


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土手通り 中江と伊勢屋

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土手通り 吉原大門交差点から望む中江と伊勢屋

馬肉も天麩羅も精がつく御馳走だけに、登楼前にまずはそこで......そんな感じの立地である。
吉原大門交差点からもその店構えを認めることができる。
そんなわけで、ここからいよいよ吉原遊廓の本丸へ入るわけだ。