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(東京都千代田区丸の内)

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鉄路で首都の玄関口といったら「東京駅」。
その東京駅と皇居に挟まれているエリアが「丸の内」だ。
ところで、東京駅周辺の地図をよ~くご覧いただきたい。
線路を挟んで「丸の内」と「八重洲」「日本橋」、町の区割りが対照的なのがお判りいただけるだろう。
前者が比較的区画が大きいのに対し、後者は細やかなのだ。
実はこの区画、古く江戸時代からそのまま踏襲されてきたものなのだ。


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最近は便利になったもので、現在の地図と過去の古地図を同時に表示できる"古地図 with Map Fan”というのがあるのを初めて知った。
ここでは、東京駅を中心にしたエリアを取り出してみた。
上が現代、下が江戸時代である。


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ちょうど新幹線が通っているラインが江戸城外堀で、実際に現在も外堀通りという名前の道路が残っている。
この外堀を境に、江戸城側(丸の内)は大名屋敷が並ぶ武家町、一方で反対の八重洲や日本橋側は町人街だった。
徳川家康の江戸入府時、丸の内一帯は「日比谷入江」と呼ばれた東京湾の一部だった。
そういえば”江戸”という地名は「江の戸」と書くが、つまり入江の戸(入口)を意味しているわけだ。
入江の対岸には「江戸前島」という砂洲があったと言われているが、それは現在の銀座周辺だったという。

江戸城拡張に従ってこの入江が埋め立てられ、新たに外堀が張り巡らされることで武家町と町人街が区分される。
明治維新後、大名屋敷は取り壊され、跡地は陸軍兵舎・練兵所となるが、後に三菱当主・岩崎弥之助に払い下げられることで丸の内の性格が180度変わる。
明治27年の三菱一号館を皮切りに、三菱関連のオフィスビルが建つようになり、それまで官庁街だった丸の内は”三菱村”と呼ばれるオフィス街に変貌する。


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東京駅(丸の内口)辰野金吾設計の赤煉瓦駅舎

大正3年、新橋と上野を繋ぐ高架鉄道が完成し、その途中駅として東京駅が開業する。
辰野金吾設計でお馴染みの赤煉瓦駅舎で、戦災で3階部分が焼失したが、平成24年に開業当時の外観が復元完成する。
ところで、この威風堂々たる外観の駅舎がなぜ経済の中心だった日本橋(八重洲)側ではなく丸の内側に建てられたか。
因みに、八重洲口ができたのは開業から遅れること15年後の昭和4年である。


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東京駅 中央の正面口は皇室専用出入口

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行幸通りから東京駅正面口を望む

その答えは駅正面口にある。
この正面口は皇室専用の出入り口で、行幸通りを通って皇居の正面に位置している。
つまり、天皇・皇室の威光が東京駅から鉄道に乗って日本各地に広がるようにという狙いがあったのだろう。


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行幸通り 皇居を正面に丸ビルと新丸ビルが両側入口に向き合う

行幸通りは幅員73メートルという広さで、関東大震災後の復興事業の一環として大正15年に完成。
正式名称は「東京都道404号皇居前東京停車場線」で、「行幸通り」は通称。
実際に天皇や皇室の行幸では、皇居から行幸通りを経て東京駅正面口に入るルートだったので、その通称がついた。
大正12年に丸ビル、昭和27年に新丸ビルが行幸通りの入口に完成、現在は高層化されているが、低階層部は竣工当時の名残をとどめている。
当時は市街地建築物法で、建築物の高さは100尺(約31メートル)までと決められていた(通称「100尺規制」)。
これは当時イギリスにあった「100フィート規制」に倣ったもので、昭和39年の建築基準法改正で撤廃されるまで丸の内のオフィスビルはこの高さでほぼ揃っていた。

新丸ビルの奥には昭和45年竣工の東京海上日動ビルディングが顔を見せている。
100尺規制が解除されてから初めて丸の内に建った31メートル超の高層ビルで、当然ながら景観破壊を理由に批判が巻き起こった。
しかし、丸ビルや新丸ビルが超高層ビルになったことで、むしろ玩具のように小さく見える。



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東京駅 丸の内駅舎北口

丸の駅駅舎は普段使われていない正面口を境に左右対称、南北にそれぞれ乗降口が設けられている。
竣工当時、北口は降車専用の出口で、乗車専用の入口は反対側の南口だった。
天然スレート葺きのドーム屋根、赤煉瓦に白い花崗岩のストライプ模様、アーチ窓の石が飛び出ている窓枠のデザインなど、いずれも「辰野式」デザインの典型だ。


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東京駅 新丸ビルテラスから

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新丸ビルのテラスから東京駅周辺を眺望

建築基準法が改正された昭和39年は東京五輪開催の年だ。
この年を境に高層ビルは100尺規制当時の31mを超え、やがて超高層化する。
もちろん、その動きには「景観破壊」という声が浴びせられるのだが、一方で往時の外観をとどめるべく高層化の傍らで低層部が外観保存という「ファサード保存」という手法が取り入れられる。


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東京駅と東京中央郵便局

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東京中央郵便局 JPタワーとして高層化しながら外観保存

外観保存で特に印象的なエピソードを持つ東京中央郵便局。
昭和6年竣工でモダニズム建築の先駆けといえる建物だが、老朽化を理由に解体・高層化の建て替えに際しては反対の声が根強く、郵政を管轄する当時の総務相・鳩山邦夫でさえ激怒したことで有名だ。
結局、外観保存の形で平成24年にJPタワーとして竣工する。


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日本工業倶楽部
日本工業倶楽部 大正9年築、玄関部にオーダー柱の新古典主義建築

一方、反対側にある日本工業倶楽部は国登録有形文化財に認定されている歴史的建築物だ。
背後の高層部が三菱信託銀行の本店ビルで、これまたファサード保存の形である。
屋上にレリーフには二人の人物が象られているが、これは近代日本の経済を支えてきた産業を象徴している。
男性はハンマーを持っている坑夫(石炭)、女性は糸巻きを持っている(紡績)。


丸の内野村ビル
丸の内野村ビルディング(旧日清生命館)昭和7年築

野村丸の内ビル
丸の内八重洲ビルヂング 昭和3年竣工

丸の内はファサード保存の宝庫だ。
明治から日本のビジネスの中心だったこともあって質が高いビルディングが多かったのだが、昭和から平成にかけて超高層化に動く。
その度に保存か解体かという議論が飛び交ってきたのだが、そこで採用されたのがオリジナルを低層部の外観として保存するという「ファサード保存」だ。
かなり無理くりな感じに見えてやはり賛否両論が多いが、歴史あるオフィス街の名残をとどめるうえではこの方法も致し方ないといえる。


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丸の内仲通り

その結果として、丸の内は統一感を持たせる町並みを保っている。
戦前から戦後にかけて建てられてきたビルは、いわゆる100尺規制に基づいている。
昭和39年の建築基準法改正でその規制が取り払われたが、昭和45年の東京海上日動ビルディング竣工までそれを超えるビルは建てられることはなかった。
それほどまでに景観を守るために慎重だったと言える。


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馬場先通り 手前に三菱一号館、奥に明治生命館

馬場先通り、国際フォーラム交差点の角に三菱一号館がある。
丸の内がオフィス街になった先駆けのビルである。
岩崎弥之助が丸の内一帯を買い取り、まず手掛けたのが三菱一号館である。
当時、皇居へのメインストリートだった馬場先通り沿いに赤煉瓦造りのオフィスビルを次々と竣工させたことで、一帯は当時のロンドンの町並みになぞらえ「一丁倫敦」とあだ名される。


三菱一号館
三菱一号館 (2)
三菱一号館 明治27年築の赤煉瓦建築を復元

三菱一号館の設計を手掛けたのはJ.コンドル。
前面の道路幅36メートルに対し軒高15メートル、100尺規制の31mの半分である。
当時はこれでも高層扱いだったのだろう。
赤煉瓦に白い窓枠と角の白い石は、東京駅の辰野式を思い出させる(辰野金吾はコンドルの教え子)。
当時1階から3階までを縦割りに貸しオフィスとしていたので入口が多く、各階ごとに窓のデザインも異なっている。


三菱一号館2
三菱一号館 中庭

この三菱一号館、実はオリジナルではなく復元建築である。
老朽化の問題もあって昭和43年に一度解体され、一帯の再開発の際に当時の設計図などをもとにオリジナルに忠実に復元させたのだ。
再開発の中心となった三菱地所が、親会社である三菱の原点であり、かつての歴史的建築に対するリスペクトもあったのだろう。


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皇居濠沿いの町並み

「一丁倫敦」と称された丸の内は、関東大震災で多くの煉瓦造りビルディングが倒壊する。
その代わりに増えたのが鉄骨鉄筋コンクリート造りのビルディングだ。
いわゆる100尺規制が生まれたのは大正8年、31mの高さで揃ったビルの町並みもこの頃からつくられ始める。
大正12年に完成した丸ビルが関東大震災にも耐えたことは特に大きく、近代的なオフィスビルは脚光を浴びるようになる。


明治生命館
明治生命館 昭和9年竣工

当時アメリカのニューヨークで流行りのビルディング様式がここで多く取り入れられることになり、丸の内は「一丁紐育」と呼ばれることになる。
三菱一号館に代表される縦割りのオフィスでなく、フロアごとの横割りでの使用が一般的になったのもこの頃からで、現在のオフィスビル様式の主流になる。


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明治生命館 所々に新古典主義様式が

昭和9年築の明治生命館は、当時のニューヨークで流行した新古典主義様式を取り入れている。
ラーメンの丼によく使われる雷紋、周囲の装飾、コリント式の柱などに表れている。



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第一生命館 昭和13年竣工

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農林中金ビル 昭和8年竣工

かつてGHQ司令部が入っていた昭和13年竣工の第一生命館も新古典主義のビルディングだ。
裏手にあった昭和8年築の農林中金ビルを合わせて、DNタワー21の低層部分にファサード保存されている。
第一生命館と農林中金ビル、いずれも渡辺仁の設計だ。


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第一生命館と農林中金ビル 1つの超高層ビル(DNタワー21)の低層部に2つのビルが使われている

2つのビルが低層部としてファサード保存の形でくっついて使われているのは珍しい。
遠目から見ると1つのビルに見えるが、確かに2つをくっつけているのがわかる。



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祝田橋からの眺め

明治から大正、昭和と経て、平成、そして今は令和の時代、往時のビルディングのほとんどは再開発され、超高層化が進行中の丸の内。
それでも、壁面保存や復元保存などを取り入れるなどして、先人が造りあげてきた歴史に対するリスペクトも見え隠れする。

それにしても今回歩いた丸の内界隈、コロナによる自粛の影響か平日の日中でもいつもよりも人出が少なかった。
事態が収束に向かう頃に、果たしてどのくらいまで賑わいを戻せるのだろうか?

(訪問 202004)