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(東京都新宿区新宿二丁目)

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日本最大の大歓楽街「歌舞伎町」を擁し、世界最多の乗降者数を誇る大ターミナル「新宿」。
その街の起源は江戸四宿の一つ「内藤新宿」に遡る。
もともと甲州街道の最初の宿駅が「高井戸宿」だったが、日本橋から四里二町(約16㎞)も離れていた。
そこで、中継ぎの宿場町として新たに設けられたのが「内藤新宿」で、「内藤」という名前は現在の新宿御苑辺りに信濃高遠藩内藤家の下屋敷があったため。


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現在の新宿の中心は言うまでもなく「新宿駅」だが、江戸時代から戦前にかけてはそこから東に離れていた「内藤新宿」が中心だった。
江戸から四谷大木戸を通り、「下町」「仲町」「上町」と東西に約1㎞ほど宿場町が続き、追分で青梅街道と分岐する。
現在の新宿通りが旧甲州街道で、地番でいうとそれぞれ「新宿一丁目」「同二丁目」「同三丁目」にあたる。
甲州街道に並行して流れているのが玉川上水だ。
宿場内には旅籠や茶屋が建ち並び、客に給仕する目的で「飯盛女」「茶屋女」が置かれていたが、実質上は遊女と変わらなかったという。
その遊女たちの投げ込み寺だったのが、靖国通り沿いにある成覚寺である。


成覚寺202004
成覚寺

山門から境内は通りに対して低い立地になっている。
山門をくぐって下りるということは「死界」に入ることを表している。


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成覚寺 入口に六地蔵
そして、入口に六地蔵がお出迎え。
地獄から始まる「六道輪廻」からの救済の役割を持つといわれている。



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成覚寺 子供合埋碑

境内に佇んでいる「子供合埋碑」。
ここで「子供」とは現在のいうところの”子供”とは意味が違って、当時の遊女に対する呼び方である。
遊女たちは死んだ後にこの寺に投げ込まれ、身元不明とされたまま一緒に葬られたのだ。
台座に「旅籠屋中」という文字が見え、案内板によれば万延元年に建立されたものだという。


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成覚寺 旭地蔵

もう一つ、境内に宿場町の悲哀を物語る遺構が旭地蔵。
寛政12年から文化10年まで不慮の死を遂げた人たちを祀ったもので、そのうち7組の男女は玉川上水へ心中したものである。
台座にはその戒名が刻まれているが、うち男女の対が7組みられる。
遊女と遊客という叶わぬ恋の果ての悲劇が宿場で繰り広げられてきたのだ。



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昭和11年頃の新宿(国土地理院地図より筆者加筆編集)

内藤新宿は明治に入った後も往時のままの佇まいを見せ、街道沿いに除夜が散在していたのだが、大正に入って市電が街道沿いに開通すると、沿線に遊廓があるのは風紀上よろしくないとして一廓に集められたのが「新宿遊廓」である。
当時は「牛屋の原」と呼ばれた牧場だったが、その牧場の経営者があの芥川龍之介の父だった。
関東大震災の後、被災した下町の住人たちが被害が微少だった山の手や郊外に移り、それまでさびれていた新宿駅(明治18年開業)から郊外へ私鉄(大4京王・昭2小田急)も開通するなどもあって、新宿は一大繁華街に成長する。
伊勢丹や三越など百貨店、映画館や劇場、寄席など娯楽施設が相次いで開業し、それらの裏手にがカフェー街が形成される。
特に、三越裏(現在のビックロ裏手)や東海横町(現在の末広通り)などが新宿の代表的なカフェー街だった。
一方、昭和5年当時の新宿遊廓は「貸座敷は五十三軒あつて、娼妓約五百六十人居る」(『全国遊郭案内』)という規模だったが、ダンスホールやカフェーを併設し洋装の娼妓が接客するモダンな妓楼が登場し、山の手や郊外の顧客で賑わうようになる。


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昭和30年頃の新宿(国土地理院地図より筆者加筆編集)

新宿は昭和20年5月の山の手空襲でほとんどが焼失、戦後は駅周辺に闇市が次々できる。
その一方で、焼失した新宿遊廓の業者は赤線として営業を再開、昭和30年当時「七十五軒の店に四百三十名内外の女がいる」(『全国女性街ガイド』)という規模だった。
赤線の他に青線が数か所点在し、そちらは合わせて2000人もの私娼がいたといわれる(実話雑誌「実態調査 全国赤線青線地区総覧」昭和29年)。
昭和33年の赤線廃止後、新宿の歓楽街は新宿二丁目から歌舞伎町へとシフトされる。


伊勢丹202004
新宿伊勢丹 訪問時はネットで覆われていた

出発点は新宿三丁目交差点からスタート。
シンボルである伊勢丹はネットで覆われ、外観がハッキリと見られない。


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新宿伊勢丹 ネットが覆われる前の姿

仕方ないので、ネットに覆われていない容姿がハッキリとしたものの写真(といっても2013年6月撮影のものだが)を。
昭和8年開店の新宿伊勢丹は、当時流行りだったアール・デコを採用している。


新宿追分202004

歩道に「新宿元標 ここが追分」と書かれた円形のレリーフが敷かれている。
ここで甲州街道と青梅街道に分岐するのだ。


新宿追分202004 (2)

追分交番を背に交差点を見る。
甲州街道はここで左手に折れ、ここから右手へ青梅街道が伸びる。


甲州街道202004

甲州街道は南へ進んで、新宿駅南口を抜けて西へ伸びる。
左手に京王新宿追分ビルが見えるが、ここが戦前の京王電鉄の始発駅で、当時は「新宿追分駅」と呼ばれていた(大正4年開業)。
当時は既に省線新宿駅ができていたが、京王側からすれば新宿の中心はまだ新宿追分から東側の宿場町という考えだったのだろう。
京王線はこの駅から甲州街道の路面を西へ通じていた。


甲州街道202004 (2)

交差点から四谷方面に臨む。
現在の新宿通りが甲州街道、四谷大木戸まで旅籠や茶屋が沿道に並んでいた。


末広通202004

新宿通りから末広通りに入る。
戦前は「東海横町」と呼ばれていたカフェー街だった。


末廣亭202004
末廣亭202004 (1)
新宿末広亭 昭和21年築

「末広通り」の名前の由来になっている新宿末広亭。
明治30年創業の寄席で、現在の建物は戦災で焼失後に昭和21年再建されたもの。
都内にある定席寄席は4か所あるが、唯一の木造建築で座敷席を持つのもここだけ。
ちょうど自粛のまっ只中で、豆タイルで囲まれたもぎりの窓口も閉まっている。


末広通り202004
末広通202004 (2)

末廣亭の周辺は昭和の趣を残した飲み屋が並ぶ。
戦前は「東海横町」と呼ばれたカフェー街と「新宿遊廓」が隣り合っていた。
いずれも戦災で焼き払われたため、往時の名残は全く見当たらない。


御苑大通り202004

南北を貫く広い通り「御苑大通り」は昭和23年に開通、かつての「新宿遊廓」を分断する形で通された。


新宿二丁目202004

御苑大通りの東側が「新宿二丁目」、戦後は赤線に指定された場所だ。


新千鳥街202004
新千鳥街

赤線の痕跡といえるのが「新千鳥街」。
”新”と付いているのは、かつて「千鳥街」と呼ばれていた青線の流れをくむ飲み屋街が新宿御苑近くにあったのを、昭和40年代に赤線として使われたこの建物に移転してきたためである。


新千鳥街202004 (2)
新千鳥街

赤線廃止後の「新宿二丁目」は、吉原のような歓楽街に引き継がれることがなかった。
客の多くは新興歓楽街の歌舞伎町に流れていく。
その代わりとして登場したのがゲイバーで、現在は日本を代表するゲイタウンに成長している。
この「新千鳥街」に入っている店も多くはゲイバーだ。


新宿二丁目202004 (3)
新宿二丁目202004 (2)
新宿二丁目202004 (4)

旧赤線を特徴づけるカフェー建築は全く見られず、ゲイバーが入るビルばかりが密集する。
ゲイバーが登場する昭和30~40年代を思わせる店構えがほとんどだ。



(訪問 202004)