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(東京都新宿区歌舞伎町)


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もはや説明不要の東京、いや日本を代表する大歓楽街「歌舞伎町」。
その町名の由来は、戦災に見舞われたこの地の復興計画の一環として、歌舞伎の演舞場を建設し、これを中心とした芸術施設を集め、家族向けの健全な繁華街をつくるというものからきている。
その一環として昭和25年に開催されたのが東京文化産業博覧会。
結局、この博覧会は失敗に終わり、歌舞伎演舞場の計画も頓挫したものの、その跡が現在の区画に引き継がれ、本来演舞場が建設される予定だった場所に新宿コマ劇場が昭和26年に開場、以後映画館やボーリング場、バッティングセンター、サウナ、飲食店が立て続けに建つようになる。
昭和33年に新宿二丁目の赤線(旧新宿遊廓)が廃止されると、歓楽街的要素が歌舞伎町に移り、昭和40年代に入ってからはラブホテルやトルコ風呂なども建つようになるが、現在の大歓楽街に成長するのは同50年代以降に入ってから。


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歌舞伎町一番街

テレビではお馴染みの「歌舞伎町一番街」ゲートをくぐると、微妙な下り坂になっているのに気付く人はどれぐらいいるだろうか。
新宿駅から歌舞伎町に向かうときに足取りが軽やかになるのは、仕事終えて気分が軽やかになったからだけではないのだ。


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一番街の入口を見ると、確かに微妙な下がり勾配になっているのが分かる。


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「歌舞伎町一番街」のゲートを振り返ると、新宿駅に向かって上り勾配になっている。


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一番街の通りから東に向けると、新宿区役所の建物がズンと立ちはだかっている。
区役所のお膝元が大歓楽街という、新宿らしい構図だ。


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新宿コマ劇場は平成20年に閉館、解体された後は巨大な超高層ビル「新宿東宝ビル」に替わった。
本来は歌舞伎演舞場が建つ予定だった場所だったが、替わって新宿コマ劇場が劇場街の中心を形成していた。


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反対側にあった新宿東急文化会館はなくなっていた。
昭和31年に開業、新宿ミラノ座をはじめとする映画館やボーリング場が入っていた。
右側にあるヒューマックビルはかつて新宿地球座が入っていた「新宿地球会館」で、創業者は台湾人の林以文。
現在の歌舞伎町ができたのは、台湾人や中国人、朝鮮人といった三国人によるところも少なくない。


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さて、歓楽街を歩くと公園がひっそりと佇んでいるのが見える。


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その公園の中に小さい神社がひっそりと鎮座している。
これは歌舞伎町弁財天、弁財天といえば水の神様、つまりこの地がかつて沼地だった証なのだ。


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上の地図は国土地理院の標準地図に陰影起伏図や識別標高図を重ね合わせたものである。
歌舞伎町一帯はかつて大久保(大窪)と呼ばれた窪地の一部で、明治期は鴨場だった。
そこに大きな沼地が広がっていて、鴨池があった。


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一方、区役所通りに出るとあからさまな高低差が見られる。
この辺りには本多対馬守下屋敷があり、「本多の池」という池があった。
恐らく窪地は池の痕跡なのだろう。


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1936年の歌舞伎町周辺航空写真(国土地理院)

上の写真は戦前の歌舞伎町周辺の航空写真だが、既に宅地化が進んでいたのが分かる。
大正8年に東京府立第五女学校が開校、近くに陸軍戸山学校を始めとする軍施設もあって、軍関係者の邸宅も少なくなかったという。


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先程の弁財天が佇む公園には、「東京府立第五高等女学校発祥の地」と書かれた碑が建っている。
現在は風俗店が並ぶ歓楽街に、かつてお嬢様学校があったのだ。
この女学校が戦後に中野に移って、東京都立富士高等学校になる。


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昭和20~25年頃の歌舞伎町周辺

歌舞伎町一帯は昭和20年の空襲で焼失し、焼け野原が広がっている。
戦後、新宿駅周辺に闇市ができ、新宿遊廓は規模を縮小しながら赤線に移行している。
その中で歌舞伎町は東京文化産業博覧会を敢行するが、これは失敗に終わる。
歌舞伎町辺りには博覧会のオピニオンと思しき施設が建っているのが見られるが、これらが後の歌舞伎町の街づくり元になってゆく。


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昭和40年頃の歌舞伎町一帯

駅周辺の闇市は露店整理令によって撤去を余儀なくされるが、その代替地として移ってきたのが歌舞伎町」だった。
花園街や歌舞伎小路、新宿センターなどといったマーケットが生まれるが、そのほとんどが非合法の売春地帯である「青線」だった。


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新宿センター街

昭和26年に誕生した新宿センター街は現在「思い出の抜け道」という名前がついている。


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新宿センター街

青線の名残は今も残っている。
上を見上げると、渡り廊下みたいな通路で建物同士がつながっているのが分かる。
この地で商売してゆくには飲み屋を隠れ飲みにして春を売るのが手っ取り早かったという事情もあり、摘発から免れるための抜け道として設けられていたのだろうか。


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新宿センター街

路地には中華の店が所々にみられるが、この辺りは中華系が勢力を張って居たようだ。
あの「上海小吃」もこの路地内にある。
因みに、路地の向かいにある風鈴会館を建てたのは台湾人だ。


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歌舞伎町の青線地帯で「新宿センター街」とともに知られているのは、やはり「新宿ゴールデン街」だろう。


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ゴールデン街の裏に伸びる遊歩道は、かつての都電の専用軌道の跡だ。


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新宿ゴールデン街

現在、2000坪の狭い敷地に200軒以上の飲み屋が密集しているが、その起源はやはり闇市上がりの青線地帯だった。
2メートル幅の狭い路地が並行して並び、「花園街」「三光町」と2つの組合が並立しているが、中身はさほど変わらない。
狭い路地からは分かりにくいが、狭い間口の中2階ありの3階建てという店がほとんどで、目立たない3階の秘密部屋で春を売っていたのだろうと思われる。


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新宿ゴールデン街

ゴールデン街の正面にそびえるのが四谷総鎮守の花園神社。
神社が高台に建ち、ゴールデン街がそれより低い低地に並ぶという光景は、聖と俗をはっきりと見える構図でもある。

(訪問202004)