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(東京都中央区築地「築地場外市場」)

2018年まで中央卸売市場があったことで「魚河岸」のイメージが強い「築地」。
豊洲に市場が移ってからも場外市場は健在で、コロナ自粛後も人出が目立つ。
ところで「築地」という地名、元々は「埋立地」を意味する言葉で、実際にこの地も埋立地だった。


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(江戸切絵図「京橋南鉄砲洲築地絵図」より)

徳川家康が入府した当時は一帯が海だったが、明暦の大火で浅草の西本願寺が焼失したことでその代替地として造成された埋立地が現在の築地である(造成にあたったのは佃島の住人たちだった)。
この西本願寺こそ、現在の築地本願寺に他ならない。
この築地本願寺を中心に同じ浄土真宗の寺院や墓地が建ち並び門前町をなしていたが、その周辺は武家町、その東側に浮かぶ島は「小田原町」と呼ばれる町人街だった。
今ではイメージできないが、運河に囲まれた埋立地で島のような土地だったのが江戸時代から戦前までの築地だった。


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(国土地理院Webより 明治43年発行「新橋」)

やがて日本が開国すると、外国人居留地が現在の明石町に設けられる。
上の地図は明治43年発行のもので、そこから築地周辺を拡大したものも併せて載せてみた。
明石町には立教大学という記述が見えるように、他にも慶應義塾や明治学院といった私学の発祥地という側面も持っていた。
一方、本願寺の南側には海軍大学校や軍医学校、経理学校、造兵廠工場という記述が見え、江戸時代は武家屋敷だった辺りは海軍軍用地として利用されていたのがわかる。


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(国土地理院Webより 昭和12年発行「新橋」)

転機が訪れたのは大正12年の関東大震災。
甚大な被害を被った築地一帯は復興事業によって大規模な道路拡幅や区画整理が行われ、それに伴い本願寺境内地に集まっていた寺院の多くが郊外に移転する。
一方、海軍用地の跡には日本橋から魚河岸が移転してきて、昭和10年に中央卸売市場として竣工、郊外に移転していった寺院跡地にも場外市場が自然発生的に生まれる。
上の昭和12年の地図を見るとすでに「中央卸売市場」の記述があり、引込線も描かれている。


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昭和11年頃の築地周辺(国土地理院Webより)

同年代の航空写真。
カーブした形の中央卸売市場の建物がはっきりと見える。
その南にあるのは浜離宮だが、皇室関係の用地なので機密上の理由で真っ白に隠されているのだろう。
築地本願寺の北東には周辺から浮いている感じで区画が斜めになっている箇所が見える。
それがかつての外国人居留地で、聖路加病院の建物もはっきり写っている(昭和8年築)。



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昭和25年頃の築地周辺(国土地理院Webより)

築地は戦災から免れており、現在も戦前の建築物が多く残っている。
昭和25年頃の写真を見ると水路が未だに張り巡らされているのが分かるが......


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現在の築地周辺(国土地理院Webより)

現在は埋め立てれていて跡形もなく消えているが、その痕跡は見て取れる。




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前置きが長くなってしまったが、さっそく本題へ。
築地市場には幾度も訪れているが、移転後にじっくりと散策するのは今回が初めてだろうか。
例のウィルスの影響か、人出はかつてと比べて少ない。


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シャッター落としている店舗、開けている店は半々といったところか。
往時は外国人観光客が大量に押し寄せ、平日ですらスムーズに前勧めないぐらいだった(というか、市場開場日に合わせているから平日しか営業していないんだが)。
それと比べると人出の数も少ない方ではあるが、閑散としているというわけでもない。


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築地場外は築地市場開場とともに自然発生的にできたと前述したが、魚河岸で仕入れに来る客(小売商)相手に商売する店、調理具や白衣などの用品、出汁の材料などを扱う店が集まっていた。
白衣の店にて品定めしている人が見えるが、恐らく小売商といったプロなのだろう。
海鮮丼などを出す店が多くなったのは外国人観光客が増えた最近になってからで、本来は観光目的のおのぼりさん相手の市場ではないのだ。


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正面に築地本願寺が控えているこの通りはもともと参道で、関東大震災前には中小の寺院や墓地が並ぶ門前町だった。
江戸時代の古地図にあるように、もともと本願寺は南に正面を向いていた。
しかし、震災で焼失し、伊東忠太の設計で再建された現在の築地本願寺は西に向いている。



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この地が門前町であった証拠に、移転せずにそのままとどまっている寺院が見える。
その縁下に店が連ねているが、これは寺の維持のために床下を賃貸して店にするのを許可したためだろう。


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戦災から免れただけあって、銅板建築や出桁造りの店が目立つ。


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この近辺で多く残っているのがマンサート屋根の3階建て住宅。
当時は3階建ての家屋を建てることが認められていなかったが、屋根裏部屋を設けるためにこうした形の屋根にしたものが多かった。


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モダンなアーチ窓で装飾している看板建築。
裏手を見るとマンサート屋根、銅板の戸袋と和洋折衷なのがわかる。


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その並びに最近できたのが「築地魚河岸」の建物で、豊洲に市場が移転した後の代替の市場としてオープンしたものだ。
実はここはかつて運河が流れていて、その跡地のスペースを上手く活用している。


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魚河岸の仲買人たちによって篤い信仰を受けてきた波除神社。
築地が造成された当時から鎮座している神社で、万治2年の創建だ。


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鳥居をくぐると、巨大な獅子が鎮座している。
この神社の由来によると、激しい波に悩まされ築地造成が難航していたのだが、ある時海面に何か光を放っているのが見えて、それが獅子の形の御神体で、で、引き揚げて祀ったところ荒波がピタリと止んだという。
だから「波除」という名前がついていた訳か。

その横には「吉野家」と書かれた石碑が建っている。
あの牛丼チェーンの発祥地が日本橋の魚河岸で、築地に市場が移転した際に一緒に移ってきた。
いわば吉野家の一号店なのだが、そこには他にはない独特の注文のしかたもあるそうだ。


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向かいにもお歯黒をした獅子像が鎮座しているが、その横には玉子塚というのがある。


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海老塚やすし塚、活魚塚、さらには鮟鱇塚というのもある。
いずれも調理される魚介の供養と感謝の意を込めて建てたもので、如何にも築地らしい。


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境内からは築地場外の様子を伺うことができる。
ここに鎮座する神が市場の賑わいを見守っている感じなのだが、コロナの影響で商売がことごとく縮小している昨今をどのような思いで眺めているのだろうか


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折角なので、移転後の築地市場の跡にも向かった。
その跡地も移転後はフェンスに覆われ、中の様子を見ることもできない。



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正門脇にはこのような交番もあった(201212)

そういえば、モダンなアールを持ったこの交番もすっかり消えてしまっていた。
当時はモダニズムが出現したばかりで、その影響が市場の内外にも見られた。

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この螺旋はまだ残っている。


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在りし日の築地場内(4枚とも201212)

大きなカーブを描く通路にターレーが行き交う光景が今となっては懐かしい。
このカーブは鉄道の引込線のコースに沿っているためだ。


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行列ができる飲食店前の光景(201212)

場内にある飲食店、特に寿司屋の前には観光客の行列ができているが、もともと市場関係者のために開けている店がほとんどで、市場閉場の時間とともに一斉に店じまいをする。
もっとも、市場関係者は寿司屋を利用することはなく、もっぱら場内の吉野家や定食屋、喫茶店を利用するそうだが。
かく言う自分も、築地を何度も訪れるが寿司屋には入ったことがない。


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最後に足を伸ばして、築地大橋から臨む。
市場の施設はほとんど解体されているようだ。
跡地は来年に延長される東京五輪で活用され、再開発されるらしい。
向うには朝日新聞社やガン医療センターが並ぶのが見える。

築地市場閉場して1年、移転先の豊洲には一度も訪れていないが、恐らく足を運ぶことはないかも知れない。
それぐらいに築地に対する愛着が強い証拠かも知れない。

さて、築地には場外市場以外にも戦災から免れた風景が多く残っている。
次回はそちらにも足を向けよう。


(訪問202004)