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(東京都中央区築地)

築地市場移転後の「築地場外」を歩く202004
築地の成り立ち、築地場外市場については前回の記事で書きましたので、併せて参照いただけたら幸いです。

築地市場が豊洲移転に伴って閉場したものの、場外市場は相変わらずその地にとどまって営業を続けている。
最近までは外国人観光客など”おのぼりさん”でごった返すほどだったが、コロナ自粛もあって前に進めないほどの混雑ぶりこそはなくなった。
それでも、もともとは魚河岸で仕入れに来る小売業などといった客相手に商売してきた市場なので、市場自体は閉じることなく、本来の商売を続けている。
さて、そんな市場町の側面を持っている築地だが、もともとは築地本願寺の門前町として開発された埋立地だったことを前回書いた。
やはり、築地に来たからにはその大元となる場所に訪れないわけにはいかないだろう。


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築地本願寺
もともとは元和3年(1617)に浅草で創建された西本願寺別院だったが、明暦の大火で焼失し、その代替地として佃島の住人たちの手で造成された埋立地に移った。
「築地」は元々埋立地を意味している言葉だが、そのまま地名になっている。




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歌川広重 - Online Collection of Brooklyn Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる


もともとは正面が南側に向いていて、その南側に門前町が形成されていた(その門前町が現在の築地場外市場になる)。
上の浮世絵から分かるように門前町のすぐに海が広がっており、船上から本堂の屋根が見える程に目立っていたようだ。
しかし、大正12年の関東大震災で焼失してしまい、再建の折に現在の西向きに替わった。


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昭和9年竣工の寺院を手掛けたのが建築家の伊東忠太。
大本山の西本願寺法主・大谷光瑞が面識が深かった伊東に設計を依頼、当時の寺院建築としては珍しい鉄筋コンクリート造りで大理石の彫刻がふんだんに用いられている。
全体的に古代インド様式をモチーフにしているのは、シルクロードを見て回ったことのある大谷や伊東の構想による。



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そして、伊東忠太お得意の「動物趣味」が所々にちりばめられているのも見所の一つだ。
もっとも、単に趣味で取り入れているわけでもなく、仏教説話を取り入れていて、いろんな動物を置いていることで物事は全体を見渡すことが重要であるというメッセージが含まれているそうだ。


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本堂入口の上部にはステンドグラスを見ると、何となくキリスト教の教会を思わせる。


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広々とした本堂は格子天井、中央には本尊の阿弥陀如来像を安置し、やはり浄土真宗の寺院である。


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しかし、本堂後ろには寺院とは無縁と思われる巨大なパイプオルガンが配置されていて、一見するとキリスト教会ではと思わせる。
仏教寺院でありながら、イスラム教やキリスト教の要素をちりばめている風である。


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本堂は随時開放されていて、気軽に入ることができる。
厳かな気分でお参りしつつ、建物をじっくりと堪能して帰りたい。


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お参りを済ませて門を出ると、木造家屋が一軒ぽつんと建っている。
廃墟かと思ったら居住者がいるようだ。
かような木造家屋が残っているように、築地一帯は戦火から免れている。


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特にそれが色濃く残っているのが本願寺裏手築地6~7丁目の一帯にあたる。
途中で遊歩道に差し掛かるが、もともと築地川という水路だった。
ここから塔楼をもつ聖路加国際病院の建物が見える。
築地が戦災から逃れたのは、あの建物の存在が大きかったとされる。
B29操縦士が教会と思って爆撃を手控えたのではという説だ。


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暗渠だった名残りで、近年まで架かっていた門跡橋の親柱が残されている。
橋の名前は築地本願寺に近いからに他ならない。
「昭和三年六月復興局建造」とあり、震災復興事業の一環として架けられたものだとわかる。


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この界隈にも最近はマンション建設が増えているが、いまだに看板建築が並ぶ場所が多い。


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看板建築が並ぶ一角。
建物の角に円柱が見られる。


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建物と建物の間に一人分は入れる隙間がある。


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路地裏には板張りの木造家屋が長屋風に並んで隠れていた。
都心、それも銀座に近い一等地といっても、これを見ると築地は下町なのだなと実感する。



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路地裏を抜けると広い駐車場に出る。
令和になっても昭和がまだ残っている光景が見られる。


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「向こう三軒両隣」という言葉が活きていた時代の風景が今でも残っている。


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戦災を免れた築地には木造町家や看板建築が多く残る。
特に、銅板建築の現存率はかなり高いだろう。


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看板建築は関東大震災後に爆発的な勢いで増え続けた建築様式だ。
震災で多くの木造家屋が焼失したため、防火目的を兼ねて外壁にフラットな意匠を施し、それが看板を掛けているように見えるために呼ばれたものだ。
特に耐火性に優れた銅板建築は、正面から見れば平板に見えるが、裏を見ると勾配屋根を持った和風の家屋だったりする。



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伝統的な出桁造りも残っている。
小口や雨どいなどが銅製で、大正時代以降のものだと分かる。
1階を店舗、2階を居住用にして階高を高くしたのもこの時代からである。



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出桁造りの裏手には板張りの木造長屋が控えている。
表通りの出桁商家が大家で、その裏に住んでいるのが店子というわけか。
しかし、裏手の木造長屋の方がインパクト大きい。



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マンションが建ち並ぶ大通りやメイン通りから一歩裏手に入ると、低階層の木造家屋が集まる構図だ。


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看板建築が長屋状に並ぶ一角だが、3階建てが並んでいるように見える。
しかし、当時は3階建ての家屋を建てることが認められておらず、屋根裏部屋として許可を得ていたのだろう。



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ビルとビルの狭間に今でも現役として営業を続ける旅館が残っている。


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玄関には古い住居表示版が残っていた。
「中央区小田原町一丁目三番地七」
昭和41年の住居表示まで続いていた町名だ。
戦前は京橋区だったので戦後になってからのものだろうが、古い町名のものが残っているのは珍しい。


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慶長年間(1596年から1614年)、江戸城増築の時、相模国小田原から善右衛門という石工が来て、この河岸を石揚場としたのにちなんで町名となったという説と、相州小田原の魚商が、幕府に請うてこの地を開いたためという説があります。


中央区のHPにこう記されている。
「小田原」というと北条氏や城で有名な神奈川の地名だが、やはり関係していたのだ。



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最近は戦前の名残りが少しずつなくなり、マンションやビルに建て替わるところも少なくない。
場外市場や本願寺に来たついでに、ぜひ立ち寄って散策してみてはいかがだろうか。

(訪問 202005)