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(東京都中央区佃島)

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「築(ツキ)地」と「佃(ツクダ)島」と「月(ツキ)島」。
隣接しているそれぞれの地域にの名前には「ツキ」「ツク」が入っている。
漢字で書くと「築く」つまり「埋立地」を意味している。
前回まで触れた「築地」がもともと「埋立地」を意味する言葉であることは触れたが、今回から触れる「佃島」「月島」もまた埋立地である。
この2つの地域はまた、路地の風景にも特徴があるのだが、実はその性格が異なる。


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(寛政十一年 西半新海江戸絵)

寛政11年に作成された当時の江戸地図「西半新海江戸絵」は、江戸城(御城)を中心に、西を上にして描かれている。
江戸時代の佃島は青い丸で囲ったところにあるが、江戸湾の隅田川河口にぽっかりと浮かんでいる文字通りの島である。

佃島の歴史は徳川家康の江戸入府から始まる。
それまでは小さい洲島にすぎなかったこの地に摂津国の佃村から漁師33名を呼び寄せて造成させ、江戸周辺の漁業権を独占させるとともに住まわせたのが佃島の始まりだ。
「佃」が大阪発祥だというのは意外と思うだろう。
家康と佃村のつながりは本能寺の変から始まり、織田信長が殺され次に命が狙われたのが当時堺に滞在していた家康だった。
居城の岡崎城に戻る途中に神崎川を渡る際に舟を提供してくれたことが、その佃村の漁師たちだった。
無事に岡崎に帰還した家康にとって佃村の漁師たちは命の恩人だったわけだ。



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佃島を拡大してみる。
島の中央に鳥居が描かれているのが住吉神社。
摂津にある住吉大社を勧請した神社で、佃島の漁師たちの氏神にあたる。
佃島住人たちは住吉神社を中心に漁師町を形成し、徳川家に寄進する白魚をはじめ江戸近海の魚介を収穫し、日本橋魚河岸に卸しながら生計を立ててきた。

佃島の隣にあるのが石川島で、もともとは旗本石川家が所領していた島だった。
寛政年間に無宿人の職業訓練を目的とした収容所として人足寄場が設けられるが、一方で外国船が頻繁に来航するようになった嘉永6年(1853)に水戸藩がこの地に造船所を設置し、これがのちの「石川島造船所(後に石川島播磨重工業、現在はIHI)」に成長する。


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(国土地理院Webより)

上の図は現在の佃島周辺の航空写真に明治時代の低湿地を重ね合わせたものである。
青い箇所が海や水路なのだが、この後、周辺に埋立地が造成されることになる。
現在の地番は「中央区佃」で1丁目から3丁目まであるが、江戸時代からの佃島は現在の地番でいうと「中央区佃1丁目」。
現在の佃2~3丁目は明治29年に新たに埋立地として造成されたもので、もとからあった「佃島」に対し「新佃島」という町名が付けられていた。


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(国土地理院Webより 昭和12年)

昭和12年時の地形図を見ると、埋立地も拡充され、月島や勝どきなども見える。
しかし、当時は隅田川に橋が架けられていないのが地図を見るとお分かりだろう。
実は当時、都心との行き来の手段が渡し舟だったのだ。


佃島渡船碑

前回の築地から佃島に向かう途中、佃大橋を渡る前に「佃島渡船」と刻まれた石碑が建っている。


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その案内板によると、佃島渡船が通されるようになったのが正保2年(1645)。
佃大橋の開通が東京五輪が開催された昭和39年で、それまでずっと交通手段はこの渡船だったのだ。


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佃大橋から佃島を望む。
かつての石川島には現在、大川端リバーシティ21という高層マンション群として再開発されている。
それをバックに昔ながらの町並みが展開されているわけだ。
隅田川沿いの赤い鳥居は住吉神社の一の鳥居。


住吉神社202005 (2)

川に沿って鳥居を島から見て西に向けているのは、故郷の摂津を懐かしんでなのだろうか。



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正保3年創建の住吉神社。
二の鳥居に架かっている扁額は陶製で、有栖川宮貴幟仁親王の筆によるものだ。


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住吉神社を中心に細い路地がお互い直行しながら区画されている。
実は江戸時代の区画をそのまま引き継いでいるのだ。


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路地裏には井戸が付き物。
佃島は漁師町なので、作業では水が不可欠なのだ。


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戦災に遭っていないので、出桁造りの木造民家が所々に残っている。


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佃島の民家は漁師町らしい特徴を持っている。
間口の広い土間を備え、その中にも井戸を持っている。
土間は荷揚げされた魚介や漁の道具を洗浄する場で、作業時には水はけをよくするために戸や鴨居を外したという。
近くで見ると鴨居に切れ目が見えるのは、その家が漁師だったという証だ。


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小口や雨どいが銅製なのは戦前である証拠だ。


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煉瓦塀を併せ持った和洋折衷の民家も。
佃島の漁師たちは徳川幕府によって独占的に漁業権を持っていたこともあって、相当に恵まれていたのだろうか。


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佃島の名産というと言うまでもなく”佃煮”。
出桁造りの「天安」は天保8年創業の老舗で、玄関に広がる風呂敷暖簾が江戸風を醸し出している。
看板としてはもちろんだが、日除けや風塵除けとしても掛けられていた。
その上には水引暖簾が間口いっぱいに提げている。


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屋根付きの置き看板も江戸ならではで、風格漂う一枚板看板や軒下看板と、それでもかというぐらいに看板や暖簾に店名が書かれている。

佃島の漁師が獲る魚介は、徳川家に上納する白魚や日本橋に卸す魚介の他に雑魚(ざこ)も含まれていた。
その雑魚を有効活用したのが佃煮で、また出漁時の船内食や漁がない日の日常食にするため、砂糖や醤油などで煮詰めて保存がきくように加工した。
保存性のみならず安価なこともあって、江戸庶民に広く普及した。


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佃島の醍醐味は細い路地だろう。
幅1メートルほどの細路地に入る。


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"く"の字型に折れ曲がっているのは、隅田川から吹き付ける強風を避けるためだ。
玄関は片側のみで、路地を漁のための作業場や道具干しとして各戸が利用していた。


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そして足元を見ると、各戸に専用の外部水栓が備えられているのが分かる。
前述の井戸と同様に、漁の道具を洗浄するためにあるのだろう。



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最後に、佃島の中心である船溜まりへ。
かつては河岸が立ち、大小の漁船が集結、大幟も結構立っていた。
現在も大幟は住吉神社の例祭時に立つ。


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往時のままなのか古い石積みや雁木も見える。


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古い低層の民家と現代の高層マンションとの組み合わせ。
かつてのウォーターフロントは江戸時代から続く往時の佇まいを残しながら変貌を続けている。


(訪問 202005)