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(東京都中央区佃島二丁目)

前回触れた江戸時代からの漁師町の流れをくむ「佃島」。
当時は江戸湾、隅田川河口にぽっかりと浮かぶ小島だった。
徳川家康が大阪から呼び寄せられた漁師たちの手によって造成された。


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寛政11年 西半新海江戸絵 上写真丸で囲った箇所が佃島 下写真はその個所を拡大


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東京湾澪浚計画 昭和12年地図をもとに編集

あれから250年以上たった明治29年、「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づいて佃島の南東に新たな埋立地が完成する。
旧来の島部である佃島と石川島に対し「新佃島」と呼ばれ、昭和41年の住居表示変更まで「新佃島東町」「新佃島西町」という町名がついた。



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「佃島」と「新佃島」は昭和41年の住居表示変更に伴い「中央区佃」にひとまとまりされ、前者が佃1丁目、後者は新佃島東町が佃2丁目、同西町が佃3丁目という区分となる。
同じ「佃」ながら成り立ちは両者で大きく異なる。


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前回取り上げた佃島の通りは江戸時代のものをそのまま引き継いで歩道と車道の区別がない細い通りだった。
だが、新佃島に入ると一転して、通りは車道と歩道が分かれている。
その幅は合わせておよそ6間(約11メートル)で、それだけでも新佃島は佃島とは別物だとわかる。
碁盤目状の人工的な区画を形成しており、道幅が不規則で交差の仕方もずれている佃島とは対照的だ。


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戦災に見舞われていない新佃島だが、佃島とは異なり看板建築や出桁造り風の長屋が多いのが特徴だ。
石川島造船所や月島の工場の労働者が居住するための住宅として造成された歴史がある。


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新佃島にも細路地はあるが、佃島のそれよりも道幅が広い。
細路地の両側に町家が向き合いながら並んでいる。


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背後に高層マンションというギャップが凄い。


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こちらは出桁造りの四軒長屋。


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そして、「佃島」には見られない細路地として、入口に段差があるものが。


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一般に段差がある場合には水路の有無を考えるものだが、ここは埋立地。
本来なら土地が平らなので起伏などあるはずがないものだが。


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その謎の真相だが、いろんな説があるようでどれが本当なのか今もって分かっていない。
掬った土を遠くへ持って行くべきところをここに捨ててしまった、という説。
あるいは堤防の痕跡、という説など様々だ。
いずれの経緯があったにせよ、下町に思いがけない高低差を発見すると思わず小躍りしてしまう。

「佃島」と「新佃島」、これは「江戸」と「明治」2つの時代にできた町という対照的なもの。
実際に両者を歩くとその違いをはっきりと感じ取ることができるだろう。

(訪問 202005)