今井町202005 (2)
(奈良県橿原市今井町)

1泊2日で奈良県に訪れました(尤も、宿泊地は大阪の安宿なんですが)。
奈良といえば、鹿と大仏様がいる東大寺やら、法隆寺やらが真っ先に出てくるでしょうか、修学旅行の定番コースの一つにもなっていますね。
かく言う私も高校時代は奈良・京都でしたが、行ったということ以外まったく覚えていないので、この機会にじっくりと回りたいと思った次第。
前述の東大寺や法隆寺などは世界遺産となっていて観光客が集まる場所ですが、素直にそっちに向かわないのが拙ブログの性格でして。
新幹線で京都に向かい、近鉄特急に乗り換えて最初に向かったのが奈良県の南部にある橿原市。


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降りたのは、京都から近鉄特急で南へ50分弱のところにある大和八木駅。
ここは大阪からもやはり近鉄が通っていて、十字にクロスしている駅ですが、近くに橿原市役所があるように、ここが橿原市のターミナル駅といえるでしょう。
大和八木駅から南西に位置しているのが今回とり上げる「今井町」、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。


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上の地図で赤く囲った箇所がその重伝建地区で、東西600メートル、南北310メートルの約17.4ha全体に約750戸、約1200人が居住していて、うち約500軒が伝統的建造物という規模。
国土地理院地図と合わせて昭和30~40年代の航空写真を載せますが、周囲が田畑のなかに東西6本南北9本もの道路で区画された街がくっきりと見て取れ、明らかに人工的に造成された街だったことが伺えます。


今井町202005(4)

「今井町」の成り立ちは天文年間、一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿がこの地に「今井御坊」(称念寺)を建立し、門徒とともに造成した寺内町でした。
周囲には土居と環濠を廻り巡らせ、近隣から有力信徒を呼び寄せるなどして城塞宗教都市としての性格を帯びるように。
永禄11年に織田信長が上洛後、本願寺は反信長抵抗勢力の旗を立て、今井御坊もそれに呼応し抵抗しますが、天正3年に降伏。
信長からは赦免の朱印状を与えられ、自治権も許されました。
江戸時代に入ると大阪や堺との交流も盛んに行われ、「今井町」は商業都市として成長します。
「今井札」と呼ばれる兌換紙幣も発行され、「大和の金は今井に七分」と呼ばれる程でした。



今井町202005(5)
南尊坊通り

今井町202005(1)
旧常福寺表門から御堂筋

大和八木駅周辺は至って普通の近郊都市の風景なのだが、エリアに入ると突如として白壁の町家が密集する光景に出くわすことに。
電柱さえなければ、時代劇のセットそのものではないだろうか。 


今井町202005(2)
今西家(国重文)慶安3年築

今井町には国重要文化財が何と9軒、これは全国どこの重伝建地区を見渡してもそれを超える所はないのではないだろうか。
その中でも規模が大きいのがこの「今西家」で、今井町の惣年寄筆頭をつとめた家柄。
環濠と合せると、町家というよりは城塞といった感じ。


今井町202005(3)
今西家(国重文) 

出格子に虫籠窓、そして鏝絵に家紋らしきマーク。
「八つ棟造り」と呼ばれるこの大規模な町家、中には裁判機能を持った部屋があり、拷問部屋も兼ねていたというので、今井町の自治のすさまじさを物語っているといえよう。



今井町202005(6)
御堂筋

「御堂筋」っていうと大阪にあるだだっ広い一方通行の通りで有名ですが、実は意味は一緒だったりします。
もともと大阪の「御堂筋」は「北御堂」(西本願寺津村別院)と「南御堂」(東本願寺難波別院)の参道だったことが由来ですからね。
ここでの「御堂」というのは「今井御堂」こと称念寺で、この通り沿いにあります。


豊田家202005
豊田家(国重文)寛文2年

豊田家は材木商「西の木屋」牧村家の所有で、幕末には大名貸しも手掛けたといいます。
先程の「今西家」と同様、建物の壁には屋号を示す記号が鏝絵として描かれていますが、このパターンは今井町に多く見られますね。


称念寺202005
「今井御堂」こと称念寺(本堂は国重文)

「今井町」の中心だった称念寺。
重文指定の本堂は修復工事中とのこと。


今井町202005(7)
御堂筋 右が称念寺 はす向かいに中橋家(国重文)

称念寺はす向かいに見える「中橋家」も国重文。
屋号」は「米彦」で、その名の通り米屋でした。


今井町202005(8)
御堂筋

所々に「旧町名」を示した案内板があります。
ちょうどこの辺りが「南町」でした。


今井町202005(11)
路面に旧六町の町割りを示した図が

江戸時代、町割りは西・南・東・北・新・今の六町に分かれていたといいます。


今井町202005(9)
中橋家(国重文)

「中橋家」の玄関に表札があるように、国重文とはいえ住民の生活の場でもあります。
柱にあるのは馬の手綱を掛けるための金具(駒つなぎ)でしょうか。


今井町202005(10)
御堂筋

碁盤目状に区画されている町割りに町家がびっしり。
この細い通り、車はまず通れないだろうな。


今井町202005(13)
御堂筋から南尊坊通りへ

細い通りが多い中、ここだけ道幅が広くカーブしている。
前述の称念寺に「明治天皇今井行在所」という石碑が立っていたが、行幸の馬車を上手く通すために道幅を広くしたなのだそうだ。



今井町202005(12)
南尊坊通りから中尊坊通りへ 正面に「河合家」(国重文)

河合家202005
河合家(国重文)屋号は「上品寺屋」 

中尊坊通りに入り、造り酒屋の「河合家」へ。
現在も「出世男」という銘柄の酒を造っているが、ここで本醸造一本と奈良漬けを購入、宅急便で自宅に送った。
酒類は土産としてはかさばるので、大抵は宅配便で郵送してもらっている。


高木家202005
高木家(国重文)屋号は「大東の四条屋」

河合家の並びにも重文の町家、「高木家」も酒造業を営んでいたそう。


今井町202005(15)
西光寺附近 交差が微妙にずれている

今井町が碁盤目状の区画をされているとはいえ、必ずしもきちんと直行しながら交差しているわけでなく、微妙にずれている箇所が多い。
これはわざわざ見通しが効かないようにしているもので、敵の侵入に備えてその遠見、見通し、弓矢や鉄砲の射通しを不可能にしているという。
今井町が戦時の防衛目的の区画をしている証拠だが、江戸時代の平時になってからも自家の生命や財産を外部から守るという目的という意味ではそのまま引き継いでいるとも言えますね。



今井町202005(14)
中町筋 左手前が「音村家」(国重文)屋号は「細九」の金物問屋

「今井町」の町家は大筋で切妻造平入に前後庇付きというもので統一されていて、角地で入母屋造があるぐらい。
恐らくは「町」の取り決めなどがあったのだろう。
それだけでは平板な街並みで退屈なのだが、各戸で格子や虫籠窓、鏝絵など細かい装飾で特徴づけることで個性を出しているのが面白い。


米谷家202005
中町筋 旧「米谷家」(国重文) 屋号は「米忠」の金物商

そして、町家で多く見られる屋根の煙出し。
これもよく見ると一軒ごとに形が違っているのが分かりますね。


今井町202005(17)
本町筋から大工町筋へ 

本町筋から突き当りの大工町筋を見るが、どこか小奇麗に整備された町並みの中にトタン板の壁という、普段着のままの姿が顔を出している辺りがいいですね。


上田家202005
大工町筋 右側に「上田家」(国重文)延享元年築

上田家202005 (2)
大工町筋 「上田家」

突き当りの大工町筋にある「上田家」は他と異なり、東西に伸びる筋に向いているのでなく、南北に伸びる通りに向いていますね。
「上田家」は「今西家」と並ぶ惣年寄の家柄で、他とは違う特権があったのでしょう。


旧上田家202005
北尊坊通り 右は旧「上田家」(県指定文化財)文化2年築「壺八」の屋号で肥料商

この先道巾が狭くなり四輪車の通行ができないそうです。
確かに無理して車を通そうとするものなら、町家に瑕がついてしまいそうです。


山尾家202005
山尾家202005 (2)
北尊坊通り「山尾家」(県指定文化財)

はす向かいの「山尾家」はいい枯れ具合ですが、実は巡見使の本陣で、桂小五郎も投宿した商家だという。


今井町202005(19)
中町筋

重伝建指定で国からの補助を受けて町を挙げて綺麗に整備された感のある「今井町」ですが、他とは異なるのはやたら観光地向けになっていないという点ではないだろうか。
町中歩いていると、観光地にありがちな土産屋さんが見当たらなかったのが何よりの証拠で、住民の普段着のままの生活の場といった感が強い。
恐らくおのぼりさんの多くは有名な寺社や遺跡に向かい、こうした古い街並みに足を運ぶのは私みたいにカメラをもって単独で散策しにくる人達がほとんど。
普段から自ら街並みを大事に保存していこうという意識が強いからこそ、今まで大規模な古い街並みが残ってきたのだろう。
そんな今井町の町並みでした。

(訪問 202005)